祇をんまり菊 GION MARIKIKU


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京都舞妓ものがたり

京都最大の花街「祇園」

江戸時代初期、「祇園さん」の名で親しまれている八坂神社の門前町として発展したのが「祇園」です。
祇園は、京都で最大の花街であるとともに、他の花街にはない独特の華やかさと格式を持っています。
祇園のお茶屋には各界の歴史的な著名人が集い、また、その中で数多くの名妓が誕生しました。
こちらでは、そんな祇園の歴史と、祇園に関わりのある人物についてご紹介します。

祇園の過去・現在

「祇園感神院」という名の比叡山延暦寺の末寺としてにぎわった八坂神社は、祇園の町の北側に位置し、「祇園さん」の名で親しまれていました。
江戸時代の初めに、この祇園さんや清水寺への参拝客や花見客の休憩所としてできた茶屋や水茶屋が祇園の起源です。
水茶屋では夜に酒と料理を出すようになり、やがて、現在のお茶屋の始まりとなる夜専門の店ができます。やがてここで働く女性が三味線を弾いたり、舞を踊るようになりさらに街は発展していきました。

その賑わいはどんどん広がりを見せ、辺り一面が畑だった新橋付近にもお茶屋が立ち並ぶようになりました。そしてついに1800年代の初め、文化・文政年間に隆盛を極めます。
このころには祇園のお茶屋はおよそ700軒、舞妓・芸妓の数は3,000名にものぼり、舞妓・芸妓たちは、こぞって芸を競い、多くの名妓も誕生。その活況は大正時代まで続きました。

祇園の名妓と著名人

祇園には著名人のエピソードも数多く残っています。

例えば、江戸時代初期に討ち入りを決意した大石内蔵助が、一力茶屋で豪遊したという話や、幕末には大和大路通りに営業していた「魚品」の芸妓、君尾が志士たちを新撰組の目から逃れさせたことは有名です。
また、明治時代には「加藤楼」のお雪が、アメリカの実業家ジョージ・モルガンと結婚し、現在なら1億円ともいわれる高額で身受けされたことでも、当時の祇園の隆盛がうかがい知ることができます。
ほかにも「大友」の女将・磯田多佳女は夏目漱石や谷崎潤一郎、吉井勇と交遊を持ち「文学芸妓」と呼ばれました。

現在の祇園

現在でも祇園は、政界や経済界の著名人の交遊の場としてその名を轟かせています。
しかし、お茶屋の数は年々減少。現在はその数も100軒を割り込み、舞妓や芸妓の数も大変少なくなりました。
その反面、近年の京都ブームに乗って雑誌やテレビ、インターネットなどの各メディアで取り上げられることも多くなったことで、舞妓志望者は確実に増えています。
長い年月の間に積み重ねられた伝統は、今もなおしっかりと受け継がれているのです。

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